2017年2月27日月曜日

お城跡、津村「八幡神社」にぶらり。

大川にもお城が存在していたみたいです。
しかし、今は見る影もなく。跡地として残っています。

いくつか存在していた中から、今回は津村城。
八幡神社。
ここ、八幡神社があるところは、二ノ丸があったところと考えられているようです。
境内はかなり広く、神社裏にはゲートボールができそうなぐらい広いスペースがあります。

神社近くの近くの民家に立て看板がありました。

引用。

  津村城跡

大川には戦国時代、酒見・榎津・津村に城が築かれていた。
 津村城に関しては、天正六年(一五七八)の筑後国領主付に津村大助二十四町所領の記録がある。
城址の位置は、八幡神社近くの字城跡といわれている。
周辺の掘割と字二ノ丸の地名は内堀・外堀・二ノ丸の遺跡と想定されている。
 津村大助秀門は、俵藤太秀郷の正統・栗木民部大助秀政の子孫で、右京大輔秀保のとき九州に下向し、大友の幕下となり津村城を築いて、津村を氏としたという。
 天正六年十一月、龍造寺隆信の筑後侵入で滅亡し、大助の子秀千代は城を逃れ、浮羽郡に居住し内記と改名、内記の子を宗仙といい、宗仙の子、三郎左衛門は再び津村に来住し、庄屋となった。
江戸期の地誌、南筑明覧には、大野島の開拓にも従事したと記されている。
 この地一帯から宝篋印塔(納経から墓碑となる)城の礎石や、鬼瓦の一部と推定されるものが出土する。

大川市教育委員会
引用終わり。

ここに登場する、津村三郎左衛門。大野島開拓が津村三郎左衛門によって、慶長六年(1601)に始まったとされています。参考程度に、江戸時代が慶長八年(1603)に始まったとされています。大野島の話はまた今度。
津村城を偲ばせる石垣。
津村城跡は、礎石や掘割ぐらいしか残っていなくて寂しいですがそれでもここらに城があったことは事実なようで。
こういうところに訪れるのもいいのかなとか思いました。

イチョウ。樹齢500年。
そういえば、あれありました。「大川市名木・古木百選」。ここにはなんと2つも!
まずはイチョウの木。
「指定番号:51・イチョウ」、樹齢は500年。

そして、クスノキ。
クスノキ。でかい。
「指定番号:27・クスノキ」、樹齢はイチョウと同じく500年。
二つに共通するのがやはりでかい!!撮影するのにかなり後ろに下がった覚えありますね。全体像を入れるにはなかなか難しいです。
さがれる余裕があるぐらい境内は広いということで。

場所に余裕があるので、夏にはここ八幡神社で夏祭りが開催されているようです。
地元民の楽しいイベントですね。

神社をつなぐ橋。新しくなりました。

八幡神社

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